さっそく天気の子を見てきました。とても面白かったです。
個人的に前作の「君の名は。」があまり合わなかったので、今作は事前情報も仕入れず見に行ったのですが、本当に良かった。
田舎なのでTJOYでT-LEXというIMAXのパチモンみたいなので見たのですが、これが良かった。音響の良いところで見た方が良いね…
まぁいわゆるセカイ系というのは分かるのですが、今ツイッターで話題になってるコンシューマ版云々なんかの
それでオタク達が大昔のゲームを幻視するのは少し違うと思った。
なぜなら天気の子で描いているのは"今"の現実の肯定だからである。
天気の子のモチーフの一つは近年の豪雨災害だと思うのだが、あのラストを見るにマジの怒られが発生しそうだなと思うくらいの時事ネタのハマり方だなと思った。現実に被害にあった人達はあれを許容できるのかな。
また雨というのは創作物では、憂鬱さや停滞感を表すものとして表現されているし、新海監督は日本経済の悪化なんかを今作に反映させたと言っている。それが「雨が続く東京」ということだ。晴れ間も見えず希望も持てない。
主人公の帆高のどこにもいけなさや、ヒロインの陽菜の家庭環境の背景はほぼ描かれない。
これはもはやわざわざ描くほどではなく、現実にありふれすぎているということだと思う。
ただ、今では行こうと思えばどこにでも行ける時代で帆高の故郷を離島にすることによって、
精神的にも物理的にも「どこにも行けなさ」を表現したのは上手いなぁと思った。
作中で「この世界は最初から狂っている」と言い切っています。まさにその通りです。
この狂っている現実で何を縁に生きていくか。
愛や希望や恋なんて今の世の中真っ当に語られることも無くなってきている。それどころか鼻で笑われてしまう。
確かなものなんて何も無い世界で、鬱屈して生きている今だからこそ、セカイ系で描かれる世界と君を天秤にかけてしまうような
青臭く切実さを孕んだごくミクロな関係性や、掴んだその手の暖かさや確かな手触りが刺さる。
最終的に帆高は世界の大雨と陽菜の存在を天秤にかけ、迷うことなく陽菜を選びます。
それは作中での大人たちが求めた正しさとはかけ離れた選択だったと思いますが、間違ってはいない。
個人的には選択肢のない1回限りの人生であの選択を決断した帆高を肯定したいと思います。
人生を棒に振ってしまうような場面で陽菜だけを求め続ける。世界なんてどうでもよくて君だけが大事だという姿勢。
本当に眩しくて輝いている、あそこまで振り切られたら観客は納得せざるを得ません。
そしてそれから雨は降り続けラストでは3年が経ち東京は水没してしまう。
離島にいた帆高もニュースなんかで見るたびに自分の決断を迷ったでしょう。
そして高校を卒業し実際に東京へ行き縁の人達から言葉をかけられても迷いは消えることのない。
だが、ラストシーン坂の上で祈っている陽菜を見つけた瞬間全てが肯定される。
自分の選択によって雨に沈んだ東京の中で、自分の選択で選びとった「陽菜」を見つける。
それだけでこの後戻りの出来ない停滞した雨の世界の中で生きていく意味を見つけられる。だから「大丈夫」。
この感想を書いていて君の名は。で何が気に食わなかったのか少し分かった気がした。
それは糸守の被害を無かったことにしたことだ。フィクションだから出来ることとは言え、
起きた事を無かったことにしてはいけないのだと自分は感じているのだと思う。
フィクションと現実を分けて考えられていないと思われるかもしれないが、
なぜなら現実は自然災害は貧困は不幸は本当に起こっている狂った世界だからである。
これからも世界は停滞し続け、不幸は起こり続け、希望なんて見えてこないだろう。
だけど天気の子はそんな世界をこれからも生きて、選択をして、意味を見つけて自分を肯定していけという。
だからこそ今ここの、この時代の対してのエールだったのではないか。
そういう風に自分は受け取りました。